昭和49年2月14日 朝の御理解

御理解第89節 「此方の道は傘一本で開くことができる」



 「此方の道は傘一本で開くことができる」という、そういう道なんです、金光教の信心とは。そういう道を教えるのです。
 えー…、そういう道を体得するということは、どういうことかと。今日、ご神前で、こんなお知らせを頂いた、あれは何という歌手でしょうか。”夕べあんなに燃えながら”という歌を歌った歌手がおりますね。何か朝、起きて出る時には別々だという。
 ね、”夕べはあんなに燃えながら”ね、もういうならば、夕べはあんなに熱い心でありながら、もう朝になったらそれこそ氷のように冷たいとこういうのです。
 どういうことだろうかと思いましたら、あの、★「森進一?」と頂いたです。字で。だから、ははー、これはこういう心の状態が、心の中に、私ともの中に育っていかなきゃならない。ね。
 そして、それが、あー、信心をいわゆる、「進一?」という事は、進めるということ、信心をいよいよ進めていくという、信心がいよいよ高度なものになって行くということは、なら今日の御理解でいうと、傘一本で開ける道が、段々身に付いてくるということなんです。
 ね、勿論、私は傘一本ということは、いわゆる、安心の境地というのが、いよいよ赤抜けして開けてくるという事なんです。ね、どのような場合であっても、いうなら驚かんですむ。どのような場合であっても、お、それをおかげに、おかげにしかならん。いうならば、一切が例えば神愛といったような、ね、昨日の御理解を借りると、肉眼を置いて心眼を開くということ。
 えー、ね、だから、なかなか心の眼を開くというは、それいっぺんにできることじゃないんです。ね、心の眼を開くということ。ね、心の眼を開いたらね、心の眼の世界というものは、一切が神愛、一切がおかげに見えてくる世界なんですから。
 そして、理屈を聞きゃなるほどと分かるんです。けど、自分の心にそれを頂くということは、やはり、稽古にも稽古を積まなければできない。
 いわゆる、信心する者は肉眼を置いて心眼を開け、とおっしゃる。その心眼を開くということがいわば、目的というてもよいくらい。心眼の世界、それはいわゆる傘一本で開ける、いわば最高の世界というてもいいでしょう。ね。
 そこで、私、昨日の朝の御理解じゃなくて、昨日の13日会の中に、のお話に申しましたですね。だからせめてです、私共が、あの心の世界に住めち。ね、心眼を開くと。ね、いう心眼の世界のいわゆる手前には、心の世界というのがあるです。いうならば、それを、ここでは心の使い方とこういうのです。
 心を、もうとにかく有り難い方へ、有り難い方へと、使うていく精進努力をする。だから、例えばそれは盲目になってもめくらになっても、心の世界が開けておれば楽しいのだ。
 先日ある、えー、方が、ヨーロッパから、の旅行から帰って、今度はアメリカの旅行へ行って、今度はカナダの方へまわって、旅行して帰って来たというご夫婦がお参りして来た。
 世界中、なら今度はもういっちょ、あっちアフリカが行きのこっとるだけですね、というたことでしたけれどもね。ブラジルにも行った。南米ですね。
 ところが、私は、いうならここ畳半畳の中にあるけれども、いつも世界中を自分の心がかけ回っておる。そして、行って帰ってどうかちう、結局日本が一番よかったちゅうことです(笑い)。
 ね、だから、そげなつまらんところに行ったってなんにもならんでしょうが、実をいうたら、行けたから行ったからじゃないです。ん。
 先日も、えー、椛目の宮崎さん達夫婦が、んー、温泉にいかれとる。まぁ、お付き合いでいかなきゃならんから行った。明くる日どげな風じゃったのち、もういっちょんようなかった。ほりゃおかげ頂いたね、て私が申しました。
 信心のない人、方達ばかりといってね。本当にはー、今日はおかげ頂いて良かった、嬉しかった、楽しかったというような、事がなかったことの方がおかげでしょうが。ね、例えば、温泉とか海外に旅行するということが有り難いということじゃないのだ。
 自分の心の中に、いわば世界はあるというようにです、ね、教祖様が、ね、「この方が祈るところ、天地金乃神と一心なり」と。それこそ、心はもう自由自在に、誰彼の上にも、有り難い思いを送ることもできりゃ、又はうらんだり、ねたんだり、憎んだりする事も出来るのです。心。
 なら、どれが一番有り難いか助かるかというと、なら自分の心が神心で、ね、本当に誰彼の事が祈って祈って、祈り抜かれなければおれないような有り難い心と。はー、例えば目が見えなくなったけれども、こういう心の世界が開けたら、めくらになることも対して、困ったことじゃないということになるでしょう。
 だからこの心の世界を開くということは、ここで信心の稽古をすりゃ直ぐ誰でも、それに精進することも出来るわけなんです。又はそういうおかげを頂くことも出来るのです。はー、自分の心が思いかえられる。思いがえとこういうんです。
 今まで苦しいと思うておったのが、本当に有り難いとお礼が言えれる心なんです。ね、心の世界とはそういう世界。そういう一つの過程で、ね、を辿らせて頂いて、お互いの心の中に、いうならば、それこそ氷のように冷たい心。又は、それこそ熱っというように熱い心。それが心の中に同居する。
 ね、まぁ例えば、あー、その、んー、何と申しますか、その歌の歌詞からいうとです、ね、これは、まぁ、あー、いうなら、なんですかね、(じょうち?)関係のことを歌った歌でしょう。ね。
 けれどもその、そのことがです、夕べあんなに燃えながらという、例えばどういうような場合であってもね、それにお礼をいう心。冷たい心にも、温かい心にもどちらにでも、御の字が付けられる心。
 ね、この冷たい心と、熱い心とこのお礼をいう心が、「森進一?」の森ということなんです。三つの木という事。三つの心ということ。どんなにあたたか、温かくてもです、どんなに熱くても、どんなに冷たくても、その熱い心に冷たい心にお礼をいう心。この三つの心が足ろうたら、進む。信心はどんどん進んでいくということなんです。
 先日、今あの、カナダの旅行から帰って来たという方の話なんかもです、ちょうど、一番( ? )の息子さんが今度大学受験するんです。それで、あのお願いに来たんです。まぁでもお茶どもあげながら、色々信心話をさせて頂いて、その息子に始めてここへ参って来た。
 去年、一昨年だったか。兄ちゃんが、大学の受験の時におかげを頂いた話を、子供にしているんです。とにかくね、神様ということをこうして頂いとる、御神米ちゅうのはね、こりゃもう、あの、精神安定剤と思えて言うて子供に教えているんです。私の目の前で。ははー、なるほどと。
 もう、御神米ば頂いて、なら海外旅行でもさせて頂いたら、もう実に安心だと。そりゃまた、もう本当に、的確にですね、行って帰って来る日まで、御神米がきちっと、一粒ずつ毎日頂くんです、夫婦で。
 帰って来て、羽田につくまであると。もうこげな事の計算で出きるこっちゃなかちいうわけ。やっぱ、神様がついておってくださると思うと、安心がある。だから御神米はね、神様にお願いをするということは、精神安定剤ぞと。
 試験場に行ってから心が落ちつく。しん、精神安定剤と思え。それで、金光様ば唱えた時と、唱えた時の、唱えない時の違いを、あのお兄ちゃんの時に一番分かったと。自分の一番不得手の学科が初日であった。その時にそれこそ、金光様、金光様を御神米を頂いていって、子供ながら分からなんなりにただ唱えた。そしたらもう僕は今年は、もう合格したというて帰るぐらいにおかげ頂いとる。出来た。いわゆるその初日の日が。
 二日目は、数学でもう自分の一番得意の学科だからもう、明日は大丈夫とこう、いうならたかくくって行った。勿論金光様もだから唱えなかった。自分の得意だから。ところがそれが一番悪かったち。
 ね、そういうおかげが頂かれるのが、信心だから、結局金光様を唱える事によって心が安定する。いわゆる安定剤だよこの御神米は。というてその、息子さんに、私の目の前でそんな、私はそうではないと思うけれども、まぁその程度に頂いておるわけです。
 けれどもやはりこれも、いわゆる一つの安心の、一つの過程ですわね。傘一本で開ける道ということは、安心一つで開ける道という意味なんです。
 何処へ行くでもなら傘一本を持っておればです、照ってきたら、ね、それを日よけに使えよし。降って来たら、それをさせば濡れんですむでしょう。だから傘一本もっておるから安心なんです。
 傘一本がないから、不安心なんです。さぁ空模様が悪うなってきた。さぁふりゃせんじゃろうか、とこう思うでしょう。ね。
 私はその方に、まい、もうあなたは偉いよというて、何時も話すことですけれども、まぁ、なになに(こうさん?)という、まぁ土地を買ったり、小売で人に金を貸したりする、商売なんです。
 もうそれはもう、それはもう、徹底しとられますですね。いわゆるもう冷たい心にもう徹底しておられるです。もういうなら血も涙もない。だからあんたの一番素晴らしいところはそれだて私は言うんです。
 ね、あんたはそれで行きなさいよと。もうこれで、人情でも使うたらもうあなたは、もう値打はなかですよち。あなたはそれをやってのけれる素晴らしさがあなたの素晴らしさなんです。もう神情と同じことなんですこれは。人情を使わない。
 だから僕自身も、それを自分でそう思うとりますという。それをやってのけれるという事がそう。素晴らしい。先生もそういうて下さるから。私はもうこれで、通すつもりだと。一生を。いうております。冷たい心とはそういう心なんです。ね。
 神情一つです。ね、それをしだごだにするところに、本当のせ、もうそれはもうすることなす事もう、とにかくおかげ頂いておる。話を聞けば聞くほどに。ね、そういう一徹の、まぁだから人はそれをね、その人が言ってました。私の町で、私をよう言うもんなおらん。とこう言う。けれどもね、2、3人はお参りでなからにゃ、私の本当の事を知っておる。
 ここの親先生が、あんたが素晴らしいというて下さるような、そこを知っておる友達は私についたら放れきらんぐらいに、私を大事にしてくれるとこういう。ほとんどの人は、もういうならば、その悪徳化のように、まぁいう、いわば悪く言うわです。もうあの人の手にかかったらお終いだと。
 ね、例えばなら小売りで金を貸すという事でもです、小売りを承知、借りる方が。始めから。だから高いのを、払いきらんちうた、言うた時には、ちゃんと、ならなんでも取り上げると表もちゃんと書いてるんだもん、その時に。当たり前じゃない。
 いやそれをやってのけるという事が素晴らしいんです。冷たい心とはそれなんです。ね、先日からも御話しました、甘木の親先生が、ね、本郷のいうなら息子さんの奥さんが、お父さんが、ならお母さんが、もう大変難しいほどに病気である時に、お願いにいかっしゃった。
 そして、今から直ぐ、福岡の方、お里、里ですから、福岡の方へやらせて頂くというて、お届をさせて頂いたら、あんたがいって病人が治るなと仰った。もうこげな冷たい心があろうか。こんな冷たいお父さんがあろうかと思うて、泣く泣く本郷へ帰ったというておられます。
 ね、親先生という方はそのように、いうならば、もう実に冷酷であった。冷たい。その次の月次祭に、親先生がおい出られて、来られた時に、そのお母さんが、それから大変おかげを頂いて全快された。もうその時にはもう良かったなぁちいうて、大変喜ばれたちゅうわけです。これが温かい心。
 ね、だから信心にはその両面がいる。ところが私共の場合はそれが、もう人情、なその、何というですか。もうこう、なんかね、本当にどっち付かずになっては、こんなことではいけないなぁと、もういつも私はそこに精進させて頂いておるけれども、けども段々おかげを頂いて、今日の私のお知らせじゃないけれども、ね、冷たい心にお礼が言えれる。又は熱い心にお礼が言えれる。三つの心が心の中に同居しておる。それを使い分けがきちっと出来るように、段々なってきた。
 先日から末永先生が、里に帰らせて、今度1週間ばっかりいっとったです。もう私の行くまでに、もう( ? )持たせたいわけ、何か持たせてやろうごとでこたえんのだけれどもね、こりゃいかんと思うて、もう本当に、あのお土産一つ託けず、お神酒一本託けずに帰しました。
 ね、これは、いうなら、もう本気で冷たい心になろうと、努力しておる心なんです。そしたら今度始めてでした。お父さんが、親先生にちゅうてから、もうこんな大きな鰤を一本託けて来ました。素晴らしいでしょうが。
 ね、何かば託けたけんで、まぁこりゃお返しです。ね、そこにです、私は冷たい心、冷たい心で祈るということの素晴らしさを感じます。ね。
 信心を進めていかなければいけません。いよいよ、それは何処を目指すかというと、傘一本で開けるほどしの道。傘一本で開けるほどしのおかげを頂くという、傘一本のおかげを頂くことだ。それはいうなら、安心のおかげを頂くということだ。どんな場合、どういうところにあっても、安心しておれれる。
 ね、それは、肉眼の世界から心眼の世界に住み替えた時なんです。その過程として、お互い心の世界に住めとこういう。信心させて頂く者は心の世界にまずはすまなきゃいけん。形やら物やらの世界に幻惑されてはならない。自分の心の世界。いうなら心を大切にする。その心がです、ね、どんあショックを受けましても、それをありがたい方へ有り難い方へと、ね、向けて行く精進なんです。
 その内容にはです。段々稽古が出来て来ると、冷たい冷たい心と、熱い熱い心とが同居してくるようになる。その冷たい心にお礼が言えれる。その燃えるような心にお礼が言えれる。まぁそれをなら、歌の文句から言うとです。昨夜はあんな汚いことをしながら、ね、その汚い事、そのこと自体に御の字を付けてお礼をいう心なんです。
 明くる日は、夕べ何もなかったように清まして、冷たいこころで別々に出て行けれるというような心なんです。その心にお礼が言えれる。この三つの心。冷たい心、熱い心、同時にその事にお礼を言う心。これが森である。ね、三つの木と書いてある。三つの心、「進一?」ということは、もうすす、もう信心を進めて行く、本当に進めていくという事はもうこの事一つに絞っていけばいいとさえいっても良いくらいである。自分の心のなかで。
 ね、それには、やはりいずれにしても徹したものがなからなければいけないという事である。ね。この方の道は傘一本で開く事が出来るほどしの信心を身に付けたい。ならそういう信心とは、ね、まず心の世界、信心は、もう心の世界に住む事だと。一切を自分の心に結びつけることなんだ。そしてしかもその心が、ね、妬む心とか、憎む心とかいう心ではなくて、ね、有り難いという、心に自分の心を変えていく。
 ん、そういう精進がなされて、初めて傘一本で開く事が出来るほどしの道が開けてくるのです。ね、あんまり人情化という、いわれる人は、おかげは頂きません。その人情化の人が自分の心の中にも冷たい、冷たい、いわゆる神心です。ね、昨日、一昨日私がお取次ぎさせて頂いた、その方ではないですけれどもです、ね、その、それこそもう約束して、承知の前で、小売で買った。それが払えんならば、なら家も屋敷もとっとりあげてでんしまうと、住まうところがあろうがなか、問題じゃない。こっちの問題じゃない。
 ね、そこになら、金なら金を借りとった方の人も又おかげを頂く道が開けて来るのです。それで例えばなら小売だしが、ならよかですたい、ある時に払いなさいていよったら、もうそげな風で金どんかわにゃんごたる人はもう絶対成功せんでしょうね。
 ね、それこそ取って取って取り上げられるほどしのところを、通るからかえっておかげ頂くんです。ね、信心のそれと通じるものがあります。
 お互いの心の中に、いわば、その三つの心。ね、「森進一?」が、私は心の中に何時もあらなければならんと思うです。
 ね、例えば自分の、”夕べあんなに燃えながら”というようなことに、にです、もう自分のような者はもうつまらんというような、頂き方になったら、絶対つまらんです。おかげ頂かれんです。その事をおかげと頂けれる人じゃなきゃおかげ頂かれんです。
 ね、おかげはほんの心一つです。ん、だから、ならその時だけ、御の字を付けるという事は出来ませんから、常日頃心の使い方の稽古というものを、本気でしとかなければならないという事。
 冷たい時だってそう。はー、自分なもう、こりゃ冷酷無比の人間じゃなかじゃろうかと思えるような事がです、出来るという事が有り難い。その事にお礼が言えれる心。ん、まぁそれは、本当に手前な心でしょうけれども、手前というか、まぁ初歩のところでしょうけれども、なら私が末永先生を里に帰した時のそれと同じです。
 ね、そこにきをです、こう、どう、あー、する事が、それば人情のように、そして本当に人情を使わなければならない時にはつかいきらん、そういう人は、に限って。ね、本当の情を、それこそ熱いほどにつかわなきゃならん時には使いきらん。
 ね、これでは、私は、何時まで立っても、かさ一本で開けるような道は開けてこないと思うね。どうぞ。

梶原 佳行